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それでも

なんとかできるだけ楽しく生きる

文脈を読ませないでくれ

バックグラウンドが違う人達と話すのが怖い。つまり全世界の人が対象となる。本当に怖い。特に日本人が怖い。私も日本語話者で、相手も日本語話者。もうこうなったら終わり。そしてこれが日常のほとんど。

 

なまじ言葉が通じてしまうのがよくない。

単語の意味がわかるから、厳格に定義を求めずに話は進行していく。「わかった」と思っていてもそれはいつだって微妙な差異をそこに含んで、次第にその乖離は大きくなっていく。言葉がわからなければ、ちゃんと慎重にすすめられるのに。

「いい天気」と私が言う。いい天気、といったとき多くの人は晴れを想像するだろうけれど、私は雨の日にそんなことを言ったりする。雨好きだし、道路が濡れて夜の光を反射するのを見るのが好きだし、屋根に雨が当たる音を聴いているのも好きだ。1日がそれで終わる。

大体の人は、不思議な顔をする。「いい天気」という言葉が自然と晴れと結びついているから。*1

上のものは極端な例ではあるけれど、こういうことは日常でも起こりうる、というか起こって当たり前だ。

だからどうということもないし、日常会話レベルで深く気にする必要はあまりないだろうけれど、重要な話をするときほど認識のすり合わせと、定義の共有はしていかなければならないよなあ、などと思っている。

 

本当は重要な事なんて話さず、誤解があってもいい小さな日常の感想の言い合いなどしていたいのだけれど。

 

*1:定義が立場によって変わるので天気予報では「いい天気・悪い天気」といった表現を避けているらしい。

愛想笑いの才能

6月の、けれど乾燥した空気の夜。スーパーの前のスペースだった。あまり明かりは多くない町で、スーパーから漏れる蛍光灯の光だけが眩しかった。

留学を考えていた僕は、留学先の事情を聞くために自分の通う大学の留学生たちの集まりに参加した。

その日僕含めて4人がいて、それぞれ買い物をして、あと一人が買い物を終わるのを待っていた。その間、彼らは彼らの故郷の話をしていた。何を話しているのかわからなかったけれど(英語だし、遠い国の話だし)、面白そうに笑っていた。だから僕も一緒に笑っていた。自然に、そうするのが当たり前だと思っていた。皆が笑っている時に笑わないのは異端。排除対象。そういうふうに学んできた。

「どうして笑っているの」

突然日本語で話しかけられたときは驚いた。どうして、どうして?

「君にはこの話がわからないはずだろう」

恥ずかしくて、顔が赤くなったのがわかった、夜でよかった。スーパーのひかりはあったけれど。

わかんないんだけどさ、どうしろって言うんだ。ニコニコ笑っている以外にそこに馴染む方法を僕は知らなかった。無表情で立ってればよかったのか、「わかんないよ」って言ってみればよかったのか。

なんて答えればいいかわからずに英語だか日本語だかよくわからない言葉でごにょごにょ言った。みんな不思議な顔をしていた。結局ずっと馴染めなかった。笑顔の魔法は効かない。

 

そういうことはたびたびあった。前の職場で「あなたは、なんで興味が無いのに笑ってるの、バカにしてるの」と言われた。給湯室に閉じ込められてこういうことを言われるって本当にあるんだなんて、頭の隅で考えていた。たぶんこういうところがよくない。その職場はそれとは全く関係のない理由でやめた。

そんなつもりはもちろんなかったけれど、そう見えてしまっていたことはそれなりに悲しかった。笑ってその場を取り繕うことしかできないのに、それがこんなにも下手だ。

別に無理して笑っているわけではない。そういうふうに自然に表情が動いてしまう。「あなたのことを敵だと思ってないですよ」「仲良くしたいと思っています」「興味深く聞いています」

そう伝えたいだけなのに、ここまで清々しく失敗し続けていると、もうそれこそ笑ってしまうしかない。

たぶん、愛想笑いの才能が壊滅的にない。もっと言えば愛想がないのだと思う。

 

長年かけても似合わなかった愛想を、だから最近は身から剥いだ。剥いだら、確かに楽になった。そうしたら今度は「君は笑わないね」と言われることになったのだけれど、もう、それはいい。だってこれは自分で選んだのだから*1

そのかわり、というわけではないけれど、本当に感じたことを伝えるためだけに僕の表情も言葉も使うことにした。そして、それはきっとそんなに悪いことではない。

今はそれを感じ取ってくれる人たちが身の回りにいる。そのことをとてもしあわせに思うから、ちゃんと笑える。

 

*1:自由意志はないかもしれないけれど

自由意志の在り処

自由意志は自分の理由や欲求に沿って行動を選択する能力であると言われている。

例えば、空腹状態のときに目の前に食べることのできる林檎があったとして、それに手を伸ばすだろうか。

まあ、多分私は伸ばします。おなかすいてるし、林檎は美味しいと相場が決まっているので。

 

ではこの時、手を伸ばした自分に本当に意志があったのか。それを考えると怖くなります。

脳が「今お腹空いている」というシグナルを出して、そのタイミングで都合よく林檎があったから「手を伸ばす」という行動を強制されただけではないのか。

 

自分がそうしたいと思ったから、そのように行動した、と言い切れる自信がない。

自分がそうしたいと思わされたから、そのように行動させられたことと区別がつかないのがこの不安の原因だと推測している。

 

wired.jp

 

上記のような研究もあるけれど未だ懐疑的だ(ちなみに自由意志を信じない人は非協調的になり非倫理的な行動に走りやすいという研究はいくつかあるし、逆もまた然りなので皆さまにおかれましては自由意志を信じて欲しい!)。ていうか0.2秒って!

脳からの司令を拒否するのもまた脳であり、その拒否するという司令を送っているのもまた脳だ。

 

自由意志の存在については半ば諦めているけれど、つまりは認識論なのだと思う。

脳に生かされているのだとして、思い出したときにでも「なんで自分はこの行動をしたのか」ということを考えることで、少しだけ自由になれる気がしている。

少なくとも、今自分の脳は自分を生かそうとしてくれているのだし、従うことも、まあ悪くはないだろう。